大法螺吹きが見ていた未来
東三河を農業大国に!
百年先を見越した近寿の挑戦
愛知県の南東、太平洋と三河湾に挟まれた渥美半島の大半を占めている田原市。温暖な気候と長い日照時間を活かし、野菜・果物・花といった近郊園芸農業が盛んに行われ、2006年から12年連続で市町村別農業産出額が全国1位となるなど、農業大国として知られています。
しかし、かつての渥美半島は慢性的な渇水に悩まされていた干害地域でした。そんな渥美半島を一躍農業大国に押し上げたのは1968年に開通した豊川用水です。
この東三河の歴史的転換点となった壮大なプロジェクトについて、発案者であり、近寿(こんじゅ)の愛称で親しまれた近藤寿市郎翁の足跡とともに改めて振り返ります。

◆東三河全土を隅々まで潤す用水路
東三河の各所に文字通りの潤いを与え、農工業の発展に大きく貢献している豊川用水。奥三河の新城市にある宇連ダムと大島ダムに蓄えられた水は宇連川に放流されます。
そこに静岡県の佐久間ダムから放流された水も加わり、約16km下流にある大野頭首工(河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設)で毎秒最大30立方メートルの水が豊川用水に取り入れられ、東部幹線水路と西部幹線水路の二手に分かれます。東部幹線水路は約76km先の渥美半島の先端まで、西部幹線水路は約36km先の蒲郡市まで、水を送り届けています。
さらに大野頭首工の下流にある牟呂松原頭首工で牟呂用水と松原用水に分かれ、豊橋市内やその周辺地域に送水。豊川用水は東三河地域にある田畑約18,000haの農業用水と域内5市の水道用水、さらに東三河地域と隣接する湖西地域(静岡県)の工業用水にも利用されています。
文字通り「命の水」を運び、東三河地域を潤す重要インフラである豊川用水が完成したのは1968(昭和43)年。今から半世紀以上前のことですが、用水路建設が構想されたのは1920年代、大正時代にまで遡ります。
では水路の総延長112kmに及ぶこの巨大プロジェクトは、どのようにして進められ、完成したのか。その経緯を辿ります。
◆干害に悩まされ続けていた渥美半島
東三河における唯一の水源である豊川。愛知県内では木曽川・矢作川と並んで三大河川と呼ばれています。
しかし、その規模を比較すると、流路延長は木曽川232km・矢作川117kmに対して77km、流域面積は木曽川5,275km2・矢作川1,830km2に対して720 km2と圧倒的に小さいことが分かります。
ところが豊川は最大流量(3,633m2/s)と最小流量(0.4m2/s)の差が日本の河川の中でも飛び抜けて大きいという特徴を持っています。
これは流路が短い上に急峻な山々を流れているため。季節や天候によって変化は著しく、豪雨となればたちまち洪水を引き起こし、日照りが続けば瞬く間に渇水となるなど、非常に不安定な性質を持った川であり、東三河の農民にとっては豊川を制することは悲願とされていました。
特に東三河の南端に位置する渥美半島の状況は深刻でした。
この地域に農業用水に利用できる程の大きな河川がない上に、元々水量の少ない豊川には、本流から遠く離れた渥美半島まで潤す余裕はなく、溜池や地下水、雨水に頼らざるを得ませんでした。
そのため渥美半島の農民は度々干害に悩まされていました。農村の中には雨乞いをして神仏に頼るところも少なくありませんでした。村民総出で七日七夜の願掛けをした村、伊勢の多度大社や遠州の秋葉神社まで出向いて祈祷した村、村の総代が紋付袴の正装で山に登って降雨を祈った村など、貴重な水欲しさに奔走した村の話は数知れず、天の恵みたる雨に頼らなければ水を十分に確保できない村の悲惨さがひしひしと伝わってきます。
そんな安定して水を確保できない渥美半島では、米をはじめとした市場で高値が付く商品作物をつくれる農地はごく僅かであり、場所によっては畑に水をまくため、井戸や溜池まで汲みに行き、人力で運ばなければならないなど、過酷な重労働を伴うものでした。
こうした事情から昭和の初め頃まで、渥美半島の主な農産物はあまり水を必要としないサツマイモと小麦が中心でしたが、この地域は強い酸性の土壌であったことから、麦の種を一斗五升(約27L)蒔いても三升(約5.4L)しか実らず、サツマイモも落花生ぐらいの大きさにしか育たなかったと言われています。豊川用水開通前の渥美半島の農村は、「赤貧洗うが如し」の慣用句がそのまま当てはまるような地域だったと言えるかもしれません。
そうした状況を変えるべく、「鳳来寺山に巨大な溜池を造り、渥美半島まで水路を引くことができれば、農村の水不足を解消することができる」という、壮大な構想をある人物が提案しました。当時、愛知県議会の議員を務めていた近藤寿市郎でした。


◆田原の名家に生まれて
近藤は1870(明治3)年4月15日、愛知県渥美郡高松村(現在の田原市高松町)に誕生。代々庄屋を務める名家の長男として育てられました。近藤が初めて政治や社会に対する関心を持ったのは12歳のころ。自由民権運動の中心だった板垣退助一行が豊橋を訪問。その際に開かれた演説会に参加したそうで、後年「多情多感な僕にはその革新的な思想、政見に感動されずにはいられなかった」と振り返っています。
その後、近藤は高松村立高松小学校高等科を卒業。15歳になると「これからの国民は法律をわきまえなければならない」との思いから、家族に何も言わずに父親の友人を頼って上京し、明治法律学校に入校しました。しかし、跡取りの長男であったことから、ほどなく父親からの懇願を受けて帰郷。高松村役場の書記として働く傍ら、明治法律学校の校外生として法律を学び続けたそうです。ちなみに1892(明治25)年6月には収入役に、翌年3月には助役となるなど、若くして村の将来を託される存在となっていました。
一方、19世紀末の渥美半島では、旧田原藩の士族だった村松愛蔵・川澄徳次・八木重治らを中心に自由民権運動が大いに盛り上がっていました。1890(明治23)年、20歳の近藤は自由党に入党し、地元から村松愛蔵が衆議院議員選挙に立候補すると、熱心に応援するなど政治活動にのめり込んでいきました。1894(明治27)年3月に行われた第3回衆議院議員総選挙では村の助役の立場にありながら、1カ月もの間、一度も村に帰らず、時に暴力も横行する激しい選挙戦に加わりました。翌1895(明治28)年3月、村の助役を辞し、東三河の中心である豊橋町(現・豊橋市)に移り、自由党東三支部に参加。その年、高松村の村長に推挙されるもこれを辞退。自由党の地方機関紙でもあった『東海日報』、後の『新朝報』の記者として活躍しました。その後、自らも政治の道を歩み始め、1903(明治36)年に渥美郡会議員に選出されると、1911(明治44)年には愛知県会議員に初当選を果たしました。
愛知県会議員を辞した1921(大正10)年、7月から12月にかけての5カ月間、シンガポール・マレーシア・インドネシアの視察へ向かいました。これについて自身が著した自伝『今昔物語』の中で「僕が南洋視察を思い立った原因は、わが国の人口が年々歳々増えるのをみて、国民生活の安定を期せしむるには、農地開発、干拓、水利などの工事を起こし二毛作を奨励するか、また一面海外移民生活をたてるのほかなしと考えたのであった」と述べています。つまりこの時、近藤は地元のことだけではなく、国民生活の安定のことを憂い、とりわけ食糧増産の必要性を感じていたことが分かります。そうして海外視察を決断。なかでもインドネシアは世界でも水利技術に関する最先端国であるオランダ領であったことから、インフラ整備も進んでいました。その技術を学ぼうと、現地の言葉はおろか、英語も話せなかったものの、「言葉は通ぜずとも手真似、物真似で立派にやってくるから結果をみてください」と言い残し、単身神戸港を後にしました。近藤51歳の時でした。これが後の豊川用水の開発に結びつくのですが、その完成はずっと後のことです。
◆ジャワ島の光景がヒントに
インドネシア・ジャワ島の丘陵地帯の集落に降り立った近藤は、あちこちの農家から立ち上る夕煙(夕飯の仕度に立つ煙)を見て郷里の東三河を思い起こすと同時に、その水利技術の高さに目を奪われました。
何と、遥か高い山の頂上から谷底の集落まで、鉄管をつないで取水し、途中の山腹には棚田が造られているではありませんか。
その瞬間、近藤は、ある計画を思いつきました。当時のことを自叙伝『今昔物語』の中で、「バンジャル付近に行くと何となく空気も変ってきて風も涼しくなってきた。段々山へ戻るので山の中腹をウネリウネリして進行すると、山と山の間に見える水田は遺憾なく開けている。(中略)谷川の水利は高い高い山の頂上まで鉄管にて取り傾斜面の山腹は段を刻んで棚田をなし、ジャワの農耕は実に水利がたけていて至れり尽くせりで僕はこれを見て鳳来寺山脈に堰堤を築き大貯水池を設け豊川に落し渥美郡を始め東三の灌漑用水を作るべきヒントを起したのである」と述懐。それ以降、豊川用水の建設を推し進めることになります。
帰国後、近藤は1923(大正12)年に愛知県会議員に復帰、灌漑用水建設の構想を国費で実行するよう愛知県知事と県議会に働きかけました。複数の案件とともに私案として県議会に提出したもの、「近寿の大風呂敷」「世紀の大ボラ」などと一笑に付される始末。壮大な計画は凡人には理解できず、荒唐無稽な理想論と決めつけられ、まともに取り上げられることはありませんでした。
しかし、誰もが非現実的だと決めつけていた用水建設構想に、ただ一人共鳴した人物が現れました。当時の愛知県耕地課長、横田利一でした。近藤は横田とともに調査を実施、共同で鳳来寺山脈にダムを築く案を策定し、農林省(当時)に対して国営事業として施行するようにと陳情しましたが、国はこれを一蹴。計画は表舞台から消し去られてしまったのでした。

◆豊川用水が国営事業に
その後も近藤は諦めることなく豊川用水の必要性を訴え続けました。すると徐々に賛同者が増え、多くの協力を得て用水建設の具体的な計画をつくり上げて行きました。そうして6年後の1927(昭和2)年、近藤の計画が日の目を見ることとなります。
この頃、日本の農村は困窮を極めていました。そのため農林省は、各県知事あてに「窮迫する農村を救援するため、農林省は緊急対策として国営にて大規模な開墾をする計画を樹立した。もし一団地五〇〇町歩以上の集団的開墾見込み地があり、この事業に対する地元の気運がある場合は申し出よ」との通達を出し、大規模な開墾計画を打ち出しました。これを受け愛知県は、かつて一顧だにしなかった近藤らの計画を復活、政府に申請したのでした。
申請を受けた農林省は、同年10月に調査団を派遣。検討を重ねた結果、3年後の1930(昭和5)年に鳳来寺山脈に宇連ダムを造り、そこから放流した水を八名郡大野町(現在の新城市大野)で取水するという近藤の構想を基とした『愛知県渥美八名二郡大規模開墾土地利用計画書』が策定。ついに豊川用水は国営事業として建設されることとなったのです。さらに1932(昭和7)年には、宝飯郡地域への送水を加えた『愛知県渥美八名宝飯三郡大規模開墾土地利用計画』へと拡大され、当時の愛知県知事は近藤に対し、「君が突拍子もない事をいうと思っていたが、どうやらものになりそうだ」と伝えたそうです。
ところが時同じくして日本は激動の時代を迎えます。1930(昭和5)年には全国的に昭和農業恐慌が起こり、政府は小規模で成果の高い事業に注力、巨額な事業費のかかる豊川用水の計画は先送りされてしまいます。その後も日中戦争・太平洋戦争の勃発や、東三河地方には軍用地が多く存在していたことなども影響し、実現まであと一歩に迫っていた計画は、またしても立ち消えになってしまったのでした。
◆構想から約半世紀の時を経て豊川用水が完成
1945(昭和20)年、戦争は終結したものの、国内は未曽有の混乱に見舞われていました。特に食糧難と就職難は著しく、政府はこれらの問題を解決するため、同年『緊急開拓実施要領』を決議し、全国に農地の開拓を促しました。愛知県は戦前に策定した『愛知県渥美八名宝飯三郡大規模開墾土地利用計画』を議場に戻し、本格的な検討を開始。その一方で、東三河において当該計画の推進を支援する団体が発足、県と地元が一丸となって豊川用水実現に向けて動き出しました。
しかし、その道のりは平坦なものではありませんでした。戦後処理に追われる中、国家財政は危機的状況にあり、物価は高騰し続け、資材は不足し、調達できるあてもない、等々。計画を進めようとすると、次から次へと現れる困難の一つひとつを乗り越えるため、県と地元は調査・検討・陳情を繰り返しました。
そうした努力がついに実を結びます。1949(昭和24)年、豊川農業水利改良事業所が開設され、宇連ダムを皮切りに国営事業として豊川用水の建設工事が始まりました。1958(昭和33)年には当初計画にはなかった、静岡県の天竜川水系の水を豊川へ導入することで水源を確保し、水道用水・工業用水といった都市用水としての機能を加えた『豊川用水事業』へと拡大。
同年12月、宇連ダムが完成し、大野頭首工の建設工事が始まり、1961(昭和36)年に完成しました。用水の工事にあわせて1960(昭和35)年頃からは大幅な農地改良事業が各地で始まり、原野や雑木林が造成されて畑になるとともに、渥美半島の田畑の多くが10aから30aの大区画に作りかえられました。
そして1968(昭和43)年5月30日、近藤がジャワ島視察で得たヒントをもとに構想してから47年もの歳月を経て、豊川用水は完成。大野頭首工にて全面通水式が盛大に行われました。しかし、その式典に近藤の姿はありませんでした。
近藤は、念願だった豊川用水完成の8年前、1960(昭和35)年4月14日満89歳で逝去。それは誕生日の前日のことでした。


◆現実となった近寿の三大法螺
さて、豊川用水建設の中心人物であった近藤は、豊川用水の構想を県議会に働きかけた際、別の2つの東三河のインフラ整備計画を併せて提唱していました。
1つは、三河湾の豊橋港を修築し、さらに豊橋港から梅田川を利用して浜名湖まで運河を造るとともに、浜名湖から浜松までの運河を造り、豊橋と浜松を運河でつなげるというもの。これにより両都市と日本各地の都市との接続を向上、活性化を図ることを狙いとしていました。
もう1つは、赤羽根村池尻川の河口を「赤羽根港」として避難港兼漁港とするというもの。そして赤羽根港からへんび、比留輪原、八王子、江比間へと渥美半島を切断するかたちで運河をつくり、航行の難所といわれる伊良湖沖の海上交通の便を良くするという構想でした。
当時としては、どれも壮大な話であったため、周囲は豊川用水とまとめて「近寿(こんじゅ)の三大法螺」と揶揄。しかし、1つ目の法螺は豊川用水として実現し、2つ目の法螺も一部は三河港として実現、3つ目の法螺も1952(昭和27)年に遠州灘における唯一の第四種漁港としての指定を受け、赤羽根港として実現されています。いずれも実現までに長い時間を要しましたが、100年後の未来を見据えたその先見性には驚かされるばかりです。
◆たった一本の水路で一面緑の農地に
豊川用水が完成したことで水を安定的に確保できるようになった東三河の農業は大きく発展、全国でも有数な農業地帯となりました。通水した1968(昭和43)年、豊川用水流域の農業算出額は370億円でしたが、2015(平成27)年になると4.3倍の約1,600億円へと拡大。特に渥美半島の農業算出額は大きく伸び、2006年度(平成18年度)には田原市の農業算出額が全国自治体の中で1位に。その後も田原市の農業算出額は2014(平成26)年が813億円、2015(平成27)年が820億円、2016(平成28)年が853億円と、3年連続で全国1位となるなど、かつて「赤貧洗うが如し」と言われた村は劇的に変貌。戦後最も成功した大規模畑地灌漑事業のひとつとされています。
尤も近藤の当初の構想では米作り、すなわち水田開発に重きが置かれていて、現在のような畑作は考慮されていませんでした。それは当時、国策として米の増産が図られていたこともありますが、当時の渥美半島において米以上に商品価値のある作物は知られていなかったためでしょう。そうした方針に修正が加えられたのは1949(昭和24)年のこと。終戦以来、日本を統治していたGHQの指導を受け、畑地灌漑が計画に盛り込まれました。
また、幹線水路についても初期の計画では、渥美半島の付け根にある高松付近から芦ケ池へと迂回し、三河湾に接する伊川津方面へと伸ばしていく予定で、半島の中央部、現在の施設園芸の中心地である若見・池尻・和地といった地域は、山の多く平地の少ない地形で広い水田は望めなかったため、構想外となっていました。これについても南側が高く、北側が低いという渥美半島の特徴を活かした経路に修正。サイフォンの原理やトンネルなどを利用し、渥美半島全域を効率よく水を送れる水路となっています。
◆小説に描かれた豊川用水
豊川用水の通水前後の渥美半島の農村の情景を一人の老女の目を通して描いた小説があります。
山田もと著『水の歌』(小峰書店、1981年刊行)です。著者の山田もと(1920―2004)は渥美郡神戸村大草(現在の田原市大草長)の児童文学作家。生家のある赤羽根地区は高台に位置し、水が出なかったため、雨水を溜めるか、共同井戸から汲んできた水を大きなかめに溜めるしかありませんでした。共同井戸から家庭に水を運ぶのは主婦や子どもの仕事とされ、『水の歌』の中でも、主人公が姑に教えてもらいながら寒空に水汲みをする様子が描かれています。舞台は昭和初期の渥美半島の村落で、主人公の“おしま”による東三河弁のモノローグによって物語が進められています。
あとがきに「このお話は名前を別にしてほとんどがほうとうのことです」(原文まま)とあり、著者自身の体験をもとに書かれた作品だということが分かります。作中では豊川用水建設に沸き立つ人々と、昔ながらの価値観や風景がなくなっていくことに対する老女の違和感がありのままに綴られていて、豊川用水の完成前後における当時の渥美半島に暮らす人々の心境や生活の変化を知ることができます。

◆地元とともに
近藤は1932(昭和7)年の第18回衆議院議員総選挙に出馬し当選、立憲政友会の所属議員を1期務め、1936(昭和11)年から豊橋市会議員を1期、1941(昭和16)年には豊橋市長となるなど、政治家として歩みました。しかし、戦後GHQによる公職追放処分を受けたのを機に政界を引退。その後は終戦後の食糧増産に向けた、機械による開拓開墾を進めるべく、1946(昭和21)年6月に豊橋市の政財界人らとともに総合建設会社の東海興業を創立、初代社長に就任。1960年(昭和35)年、亡くなる直前まで職務にあたっていたそうです。
1994(平成6)年、田原市赤羽根町の高台に近藤の功績を讃えた銅像が建てられています。今も出身地である高松町の温室地帯にやさしい眼差しを向けています。
◆終わりに
鳳来の宇連ダムに蓄えられた水は豊川を経由し、豊川用水の取水施設である大野頭首工へ。そこから約80km先の渥美半島や蒲郡まで自然流下で水を届けている豊川用水。東三河地域だけでなく、隣接する静岡県湖西市にも多大な恩恵をもたらしていますが、完成から60年近く経った今、そこにあるのが“当たり前”であり、あまり意識されていないように感じられます。しかし、それは仕方のないこと。むしろ地域の中に溶け込んでいることの証左と言えるのではないでしょうか。
今回の取材で起点の宇連ダムから終点の初立池までを辿ってみましたが、改めて豊川用水のスケールの大きさと発想力に驚嘆。そして、用水の周辺に広がる田圃や畑、ビニールハウスの群れ、工業地帯などを見て、これこそが今から約100年前に近藤が夢見た未来の景色だったに違いない、そう思わずにいられませんでした。
豊川用水の近くを通った際には、豊川用水の歴史と近藤寿市郎について、少しだけでも思い出してみてください。

《参考文献》
・豊川用水史(水資源開発公社中部支社)
・今昔物語(近藤寿市郎著)
・水の歌(山田もと著)
・近藤寿市郎伝 豊川用水と東三河百年を構想した男(嶋津隆文著)
