フォノンカフェルーム特集

ミレニアムの伝説カフェブームの始まりは豊橋だった!? ~23年カフェを続けた馬鹿はただ一人(笑)~

クリエイティブ空間を自由に泳ぎ回る、

デザイナー谷野大輔氏と伝説のカフェ

「カフェの外套をまとってオープンします」と宣言し、西小池町にオープンしたカフェフォノン。

頃は20世紀最後の年。

時を同じくして大都市圏で新たなカフェ文化が萌芽し始めた頃で、カフェが空間に浸ることを楽しむ場として認知され、広がってゆきました。

ではなぜ、東海の一地方都市に過ぎない豊橋市にいち早く誕生したのでしょうか。

カフェのオーナーでもあるデザイナーの谷野大輔さんの足跡とともに、カフェブームの先駆けとなり、多くの人々に惜しまれつつ23年余の歴史に幕を下ろしたフォノンカフェルームについてご紹介します。

2023年330日に閉店したフォノンカフェルーム。2005JCDデザイン賞シルバーアワードを受賞

◆リアリティの極致としてのカフェ経営

谷野大輔さんがカフェを始めようと思い立ったのは、現代美術を研究していた名古屋芸術大学大学院の卒業が近づいた1999年のこと。

当時、可愛がってもらっていた教授から「他大学へ移るから、もう少し研究を続けなさい」と勧められた谷野さん。

というのも現代美術は「訳の分からない物を創り、訳が分からないなりに訳を求める」学問であり、後ろ盾となる権威がモノを言うため、ある種の学歴社会が形成されているとのこと。

「東京芸大出身です」と聞けば、多くの人は「よく分からないけど、きっと凄いのだろう」と納得してもらえる世界。

要するに今後本腰を入れて表現の世界で生きていくなら、経歴も重要だと教授は諭したのでした。

それを大学院も終わり頃に聞かされた時、ここ(美術)もそういう世界だったのかと谷野さんは行き場のなさを感じたと振り返ります。

「幼少期から運動キライ、勉強キライ、競うことがキライ」だった谷野さんにとって、唯一のエスケープゾーンが美術。

それが一瞬で崩されてしまい、急速に興味を失ってしまうことに。

教授からは願書を出すよう急かされ、「分かりました」と返事はしても、願書は出さずじまい。

結局、卒業を選びました。

教授にすれば、これだけ目を掛けてきたのに、ふざけるなという思いだったのでしょう。

ルートまでつくって後のことは任せておけという状況だったのに、突然反旗を翻したのも同然であり、絶縁状態。

後に和解していますが、怒りは相当なものだったでしょう。

しかし飛び出したところで問題は、どうやって生活するかでした。

生きていくには当然、働かなければなりません。

「それまでいわゆる象牙の塔の中で研究と創作活動に没頭してきたため、ふとそれまでとは逆のリアリティの極致に行ってみたくなった」と谷野さん、そこで思いついたのがカフェの経営でした。

◆フォノンカフェルーム、オープン

現代美術の研究者としての道を捨て、なぜカフェの経営を思い立ったのか。

それは父親の影響でした。

谷野家は祖父の代に豊橋から千葉の八街(やちまた)に移住。

ある日、豊橋に残っていた曽祖父の面倒を見なければならなくなり、曽祖父の孫である谷野さんの父親に白羽の矢が当たり、一家で豊橋に引越し。

当時はすぐに千葉に戻ることになるだろうから、好きな音楽を存分に聴ける喫茶店でもやるかということで、西小池町でジャズ喫茶を営んでいました。

そんな経験から、どうせ働かなければならないなら、「モラトリアムはカフェに限る」と。

かつて父親が営んでいた喫茶店跡でスタートしました。

ジャズ喫茶閉店後、誰にも使われずに放置されていたため、谷野さん自身で手を入れました。

それと同時にカフェの修行に。

内装もすべて谷野さんの手で。

作品づくりで培ったスキルを活かし、フローリングや壁面のペインティング、配線など、自分の作品として仕上げました。

イメージは芸術の都パリにある「カフェ・ド・フロール」。

多くの絵描きや物書きが集って議論し、新しいモノを生み出す。そんなサロン的な空間を自分の手でつくりたいという思いが込められていました。

そうして約1年間の準備期間を経て2000年、フォノンカフェルームがオープンしました。

その時の気持ちを「リアリティのある市井の人と絡みながら、世の中に自分の居場所があるのか確かめつつ、恐る恐る船出をするみたいな」感じだったと谷野さん。

何せ当時は、コーヒーを飲んで休息をとる、あるいは恋人と待ち合わせをする、友人と時間潰しをする場所と言えば喫茶店であり、カフェと表現される空間はありませんでした。

そのためオープン当初は苦戦したものの、やがてカフェ文化が全国に定着すると一躍カフェブームが巻き起こり、それまでの喫茶店とは異なるカフェが認知されるとフォノンカフェルームの注目度もアップしました。

当時のことを谷野さんは「自分のスキルとは別に、言葉によって惹かれた人たちに知られ、広まっていくという不思議な現象が起きた」と振り返ります。

◆谷野さんの半生

カフェブームの先駆けとなったフォノンカフェルームのオーナーである谷野大輔さんとは一体、どんな人物なのでしょうか。

谷野さんは1974年、千葉県八街市生まれ。

前述の通り、3歳頃に父母とともに豊橋に移り住みました。

それは幼いながらショッキングな出来事として記憶され、豊橋に来て40年以上が経った今でも「八街の落花生畑の黒土と若葉の鮮やかなコントラストの美しさが、原風景としていつまでも残っている」と言います。

少年時代を振り返って谷野さんは「多くの友達をつくるというより、内に籠る内向的な気質」だったと自己分析。周りの豊橋の子たちとは「どこか違うな」と感じていました。

そんな谷野少年に最初の大きな出逢いが訪れます。

母親との幼稚園からの帰り、ギャラリーの前で足を止めたところ、そこのご主人が「絵が好きなら入っておいで」と。

それをきっかけに豊橋在住の日本画家を紹介され、絵画教室に通うことに。

その教室は、小学校のうちはクレヨンや水彩など、一般的な画材を使って自由に描かせてくれる方針で、中学に入った頃から日本画の絵具を使うようになりました。

高校は美術教育に特化したコースが新設された学校に一期生として入学。

美術の先生が日本画を専門としていたため、日本画を続けるつもりだったところ、「日本画はやめておけ。これからはデザインの時代だ」と一喝。頃はバブル前夜、新しく魅力的な製品が次々と生み出されていました。

そしてモノづくりやそれを売るための広告宣伝など、すべてにデザイナーが関わっていることを知って興味を持ちデザインへと方向転換。

大学は恩師が卒業した名古屋芸術大学へ。デザイン科に進学しました。

名古屋芸大ではデザイン科であっても1年生では絵画や彫像など、あらゆるアートの基礎課程を履修。

そこで自分の適性を理解した上で、デザイン科の中のグラフィックやプロダクトといったコースを選択するというシステムでした。

谷野さんが選択したのは造形実験コース。グラフィックとプロダクトを繋ぐ領域や、デジタルとアナログを繋ぐ領域など、そういった隙間の領域を研究するコースで、アートや哲学などが入り混じっていて、学内でも謎のコースと言われていたのだとか。

ただ、自分を狭めないという点で谷野さん自身の気質にはピタリと合っていました。そしてデザイン史をベースとしながら現代的なアート作品をつくるといった学生生活を送り、大学院へ進学、研究を続けたのでした。

2階のデザインオフィス

◆作風を持たないデザイナー

大学院を卒業後、1年の準備期間を経てフォノンカフェルームをオープンした谷野さん。

ただし、カフェの経営は手段であり、主目的はアートやデザインなど、自分が関わってきたこと、学生時代に培ってきたものを活かすことでした。

そのためデザインの仕事にも並行して取り組んでいました。

大学時代に通っていた美容室のロゴマークに始まり、その店舗の内装デザイン、その後、名古屋・豊橋周辺の店舗デザインを手掛けるように。

その他にも愛知トリエンナーレ関連や地方自治体などの公共事業のほか、京都鉄道博物館の館内を走らせるトロッコの車両デザインなど、幅広いデザインを手掛けています。

そんな谷野さんは“ブラックジャック”を自称。

曰く、「私の使い方は使う人に決めてもらう」「一切資格は持たない。資格や専門性は自分を狭めるだけ」だと。

例えば、インテリアデザイナーであれば内装だけ、建築デザイナーであれば建物だけ、グラフィックデザイナーはロゴマークやメニュー表などの印刷物・構造物だけ。

ところが何も持たなければ自由であり、領域横断的に対応可能に。

しかも発注者のイメージを様々なデザイン領域を駆使して具現化しているため、満足度の高いものとなり、評判が評判を呼ぶカタチで仕事の幅も広がって行きました。

ナニモノにも縛られない谷野さん。どの仕事にも“谷野カラー”が見えないのも特徴で、周囲からは「作風を持たないデザイナー」と評されています。

2000年にオープンしたフォノンカフェルームは、2005年つつじが丘に移転。

1階をカフェ、2階をデザイン事務所としました。クリエイティブなデザイナーであると同時に、エンドユーザーと接するカフェ経営者でもあった谷野さん。

人と人が交流する中から新たな芸術が生まれたパリのサロン的な情景に憧れて始めたカフェは、静かに音楽とコーヒーを楽しむ空間へとコンセプトを変えつつ、多くの人に愛されていましたが、オープンから23年を経過し、カフェとしての役割を終えたものと判断し、2023年3月30日に閉店しました。

ミレニアムイヤーに突如巻き起こったカフェブーム。

仲間達が5年程度で手を引いてしまう中、20年以上継続したのは谷野さん、たった一人でした。

そんな自分を評して「きっと馬鹿なんでしょうね」と自嘲します。

その後のことは「分からない。なりゆき人生だから」と笑う谷野さん。

掴みどころがなく、どこか飄々とした雰囲気をまとったデザイナーは、次にどんなサプライズを見せてくれるのでしょうか。

楽しみは尽きません。

谷野大輔さん

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